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大分地方裁判所 昭和53年(わ)331号 判決 1982年5月13日

被告人 森下勉

昭一二・八・六生 無職

主文

被告人を懲役一三年に処する。

未決勾留日数中一一〇〇日を右刑に算入する。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、

第一  昭和四一年一二月二一日、東京都文京区小石川四丁目六番一〇号エーザイ株式会社本社内に事務所を置くエーザイ健康保険組合の職員に採用され、同四七年ころからは同組合の事務及び経理の全般についてその処理を任され、事実上の事務長として、また同五二年四月一日からは正式の事務長として同組合規約・処務規程及び財産管理規程等に基づき、組合員からの健康保険料の徴収、診療報酬の支払い、同組合開設の保養所佐島寮の利用料及び右保養所に対するエーザイ株式会社の補助金の各受領並びに右に伴う現金、預金等の管理及び理事長印等各種公印の保管、健康保険法施行令に基づく法定準備金或いは任意積立金として右組合が保有する金銭信託・貸付信託・公社債券等の管理、保管及び運用等の業務に従事すると共に、同四六年三月二一日からは、右エーザイ株式会社の社員資格をも取得して同会社労務部厚生担当事務を兼務し、同部内での分掌事務のうち、同会社が住友生命保険相互会社(以下住友生命という)及び第百生命保険相互会社との間に、右エーザイ株式会社の社員全員を被保険者とし、同会社を保険金受取人として締結した団体定期保険契約による保険料の支払い並びに保険金の請求及び受領の業務に従事していたものであるが、同五一年五月ころ、株式会社サンライズ貿易(以下サンライズという)の外務員から商品取引を強く勧誘され、東京綿糸等の相場によつて利益を得ようと考えたもののその資金に窮した末、自己が右職務に関して管理中の預金、小切手、債券等をほしいままにこれに流用しようと企て、

一  第一勧業銀行本郷支店、富士銀行本郷支店及び埼玉銀行本店に設けられた同組合理事長内藤達雄名義の各普通預金口座並びに第一勧業銀行本郷支店に設けた同組合森下勉名義の普通預金口座の各預金通帳と共に同組合理事長等の右各届出印を保管するなどして右各普通預金を同組合のため業務上保管中、別紙犯罪事実一覧表(一)記載のとおり、同五一年五月一三日ころから同五三年五月一六日ころまでの間前後三〇回にわたり、東京都文京区本郷四丁目一番四号第一勧業銀行本郷支店ほか二か所において、いずれも自己の用途に費消する目的で、ほしいままに、情を知らない前記各銀行の係員を介して、右各預金口座から各銀行支店長名義の自己宛小切手を振り出させ、その交付を受けるなど預金合計九五八四万円の払戻しを受けて、それぞれ横領した

二  同組合が取得し丸三証券株式会社に保護預けをしていた商工組合中央金庫発行の利付商工債券につき、右証券会社作成の預り証及び右組合の届出印を保管して右債券を同組合のため業務上保管中、同五一年九月一七日ころ、東京都中央区日本橋二丁目五番二号所在の右証券会社において、右債券中、第二五八回利付商工債券一〇〇万円券二通(債券番号〇五一二及び〇五一三)を自己の用途にあてる目的でほしいままに、二〇二万五〇〇六円で同会社に売却してこれを横領した

三  同じく同組合が、丸三証券株式会社に預託してあつた商工組合中央金庫発行の利付商工債及び日本不動産銀行発行の利付不動産債(いずれも登録債で証券の発行がなされていなかつたもの)並びに株式会社三井信託銀行を受託者とする貸付信託受益権(通帳式)の管理・処分等の事務処理に当つており、エーザイ健康保険組合の財産管理に関する諸規程に従つて、同組合のために右金融債及び受益権を管理運用すべき義務があるにもかかわらず、別紙犯罪事実一覧表(二)記載のとおり、同五一年一〇月二二日ころから同五二年六月二〇日ころまでの間前後四回にわたり、いずれも同組合内において、その処分代金を自己の株式会社サンライズ貿易に対する商品取引の委託証拠金にあてるなど自己の利益を図る目的で、その任務に背きほしいままに、前記各金融債中、金額各五〇〇万円の金融債二口を前記丸三証券株式会社に売却し、また前記貸付信託受益権中、元本八五〇万円及び、同一一〇〇万円のうち各五〇〇万円を株式会社三井信託銀行に買い取らせ、以上の代金(合計二〇四七万六八八九円)を同組合に入金せずもつて同組合に同額の財産上の損害を加えた

四  同五三年三月一〇日ころ、エーザイ株式会社から前記組合に対する契約保養所利用補助金等として、同会社代表取締役内藤祐次振出しにかかる金額一六八万〇七四一円の小切手一通を受領しこれを同組合のため業務上保管中、同月一三日ころ、前記第一勧業銀行本郷支店において、自己の用途にあてる目的でほしいままに、情を知らない同支店係員石黒初枝を介して、これを同支店の自己名義の当座預金口座に預金して横領した

五  同五三年三月一七日、前記住友生命から前記団体定期保険契約に基づき、エーザイ株式会社従業員岡崎寛蔵の死亡に伴う保険金の一部として、住友生命新宿支社支社長小柳忠之振出しにかかる金額一〇〇〇万円の小切手一通(証拠略)を受領しこれをエーザイ株式会社のため業務上保管中、同日、前記第一勧業銀行本郷支店において、自己の用途にあてる目的でほしいままに、そのうち三九五万円を同支店の前記エーザイ健康保険組合理事長内藤達雄名義の普通預金口座に、また残り六〇五万円を同支店の同組合森下勉名義の普通預金口座にそれぞれ預金して横領し、更に引続き同年四月一三日、住友生命から右岡崎の死亡に伴う保険金の残金として前記支社長小柳忠之振出しにかかる金額二〇〇万円の小切手一通(証拠略)を受領しこれをエーザイ株式会社のため業務上保管中、同月二二日ころ、同会社内において、ほしいままにこれを株式会社サンライズ貿易の従業員土門昭男に対し、自己が同会社に委託していた東京綿糸の売買取引の委託証拠金として交付して横領した

六  同年五月二日、住友生命から前記契約に基づき、エーザイ株式会社従業員石田照男の死亡に伴う保険金として、前記支社長小柳忠之振出しにかかる金額一二〇〇万円の小切手一通(証拠略)を受領しこれをエーザイ株式会社のため業務上保管中、同月六日、東京都豊島区北大塚二丁目一三番一〇号所在の第一勧業銀行大塚支店において、自己の用途にあてる目的でほしいままに、これを同支店の自己名義の普通預金口座に預金して横領した

第二  同年九月二二日から東京都民生局保険部の職員により実施されたエーザイ健康保険組合に対する定期事務監査により、被告人の前記横領等の事実が発覚し、その額は約一億円にも及んだため、その補填に窮したあげく、自己を被保険者とする多額の生命保険に加入したうえ、旅客機に搭乗し、航行中の機内で火を放つてこれを墜落破壊させ、航空機事故を装つて同機の乗務員及び乗客を道連れに自殺すれば、右保険金により前記損害が補填されるものと考え、同年一〇月一日午前一一時ころ、熊本県上益城郡益城町大字小谷一八〇二番地の二所在の熊本空港第三駐機場において、乗客を搭乗させるため駐機中であつた同日午前一一時一四分同空港発東京国際空港行き東亜国内航空第三五二便DC九型旅客機(JA八四二八)内に、びん詰めベンジン五〇〇立方センチメートル入り二本(証拠略)及び三四〇立方センチメートル入り一本並びにカセツト式液化ブタンガスボンベ二二〇グラム入り三本(証拠略)を所携のシヨルダーバツグ内に隠匿して妻子と共に搭乗し、別紙乗務員乗客一覧表記載の機長酒井清憲ら乗務員六名、大石由美子ら被告人を除く乗客一〇六名が搭乗する前同機が同空港を離陸し、同日午前一一時三五分ころ、高度約八二〇〇メートルで大分市丹生所在大分無線標識所から岡山へ向け約三六キロメートル地点の別府湾上空を航行中、前記シヨルダーバツグを携えて同機後部右側ラバトリー内に入り、同所で右バツグから前記びん詰ベンジン二本(各五〇〇立方センチメートル入り)及びカセツト式液化ブタンガスボンベ三本を取り出し、右ガスボンベ三本のキヤツプをはずしてこれを便座後方の壁際に立てかけたうえ、右ガスボンベ等を包装していた新聞紙を床に拡げ、これに右ベンジン約一本半を散布して所携のマツチで点火し、同機の墜落・破壊及びこれによる乗務員及び乗客の殺害を図つたが、乗務員らにより早期に発見、消火されたため、同ラバトリー内及び客室の一部を焼燬したにとどまり、その目的を遂げなかつた

ものである。

(証拠の標目)(略)

(弁護人の主張に対する判断)

一  弁護人の主張は次のとおりである。

1  業務上横領について

(一) 判示第一の一の事実中、第一勧業銀行本郷支店の「エーザイ健康保険組合森下勉」名義の普通預金口座は、被告人が自己の便宜上開設したもので届出印も被告人個人のものであつて、右口座の預金は組合のために保管していたものではなく、これについては組合との間に何らの委託関係もなかつたのであるから、同預金の払戻しを受けた行為は業務上横領に該当しない。

(二) 被告人はエーザイ株式会社労務部厚生担当職員として同会社の締結した団体定期保険契約に基づく保険金請求業務を担当していたが、その受領については被告人の業務には含まれておらず、これは本来同会社経理部の担当すべき事務であつて、本件小切手は、たまたま保険会社の外交員と被告人が面識があつた関係で便宜上被告人において受領したものに過ぎず、右保険金が小切手で支払われること自体が例外であり、従つて判示第一の五、六の小切手は被告人が業務上保管していたものではない。

2  航空の危険を生じさせる行為等の処罰に関する法律(以下航空危険法という)四条違反について

同法制定の趣旨及び同法が重い刑をもつて臨んでいることからして同法の解釈は厳格になされるべきであつて、同法四条により航空機内に持ち込むことが処罰の対象とされている物件は、それが航空機内で使用された場合に航空の安全に対する危険の度合いが例示物件である銃砲、刀剣類及び火炎びんと比肩し得る程度のものであることを要すると解すべきであり、本件において被告人が航空機内に持ち込んだベンジンは、その物自体で、即座に人々を殺傷し、又は物を損壊ないしは破壊しうる性能を有するものではなく火炎びんのようにそれ自体に発火装置が施されたものではないのであるから、未だ前記例示物件と比肩しうる程度には達してはいないものというべきであり、従つて判示第二のベンジン持ち込みは同条違反とはならない。

3  航空機墜落等未遂及び殺人未遂について

被告人は航空機の構造、機能及びガスボンベ等についての科学的知識に乏しく、ベンジンに点火すれば、ガスボンベが爆発し、その破壊作用により航空機が墜落するであろうと単純に考えて右実行行為に及んだものであるが、被告人の認識したようなガスボンベの爆発によつて航空機の破壊・墜落という結果が生じることは絶対にあり得ない。

しかして検察官は、本件ベンジンの燃焼熱によつてガスボンベが破裂、燃焼する結果(1)機体内装材の燃焼によつて発生する有毒ガスによる乗務員・乗客の死傷(2)熱・炎による乗務員・乗客の死傷(3)客室前部に乗客が移動することによる機体の重心位置の限界を超える前方偏位及び熱による操縦装置(昇降舵操作用ワイヤーのプーリー)の損壊等に基因する操縦困難乃至はこれに伴なう操縦ミス等による墜落或いは着地の失敗による機体の損壊と乗務員・乗客の死傷等の可能性があつたというのであるが、被告人の意図は前記のとおりで、右のような因果関係については予見不可能であり、これをもつて被告人に刑事責任を問うことはできない。

のみならず、本件においては被告人がベンジンに点火して間もなく乗客・乗務員により発見され、乗務員の消火活動によつて早期に消火されたのであるが、本件火災の場所は機内の誰からも容易に発見しうる場所であり、機内には火災に備えて消火器が常設されていること及びスチユワーデスは日頃消火訓練を受けていること等を考えると、現実に行われた程度のスチユワーデスによる消火作業は、通常予想されるものであり、本件航空機の墜落等の可能性の有無を考えるに当つては、これを無視すべきではない。

更に検察官の前記主張は、ベンジンの燃焼のみではなく、その燃焼熱によつてガスボンベが破裂、燃焼したことを前提とするものであるが、ベンジンの燃焼によつて本件ガスボンベが破裂、燃焼する可能性についての証明はなされていない。

即ち検察官は模型機における燃焼実験の結果及びこれに基づく鑑定書を根拠として本件ガスボンベが破裂する可能性があつたとするのであるが、右模型機は、その形状、機内の容積、気密性、使用材質等の点で実機とは異り、又右燃焼実験の過程も、実際に本件において被告人が行動した状況と相違することがあり、これらはいずれも証拠価値を有しない。

又検察官の前記ガスボンベの破裂、燃焼によつて発生する有毒ガスによる乗務員・乗客の死傷等の可能性についての主張も右模型機における燃焼実験の結果及びこれに基づく鑑定書を根拠とするものであるが、模型機で使用された内装材は実機のものと相違し、又換気率、燃焼の状況、ガスの拡散等の条件についても同一ではないのであるから、右実験等に基づく有毒ガスによる乗務員・乗客の死傷についての鑑定結果は信用できないものである。

次に熱・炎による乗務員・乗客等の死傷の可能性についてもダグラス社の回答書によれば、本件航空機の内装材はいずれも厳格な燃焼条件に適合しているものであり、例え燃焼したとしても極めて短時間のうちに自然消火することが明らかであつて、検察官の主張は誇大に過ぎるものである。

更に重心位置の前方偏位についてもダグラス社の回答書によれば、重心位置が前方に移動したとしても正常な飛行を維持することができ、また九五名の乗客がすべて前方から第五列目の座席より前に移動したとしても、主輪の上に安全に着陸できる旨断言しているのであつて、昇降舵操作用ワイヤーのプーリーの熱による破損についても、操縦系統は複数になつており、右側が破損しても左側が正常に作動すれば、操縦には何らの支障もなく、そもそも検察官が主張するような、前記ワイヤーがプーリーの支持枠にはさまれて動かなくなるような事態の発生を想定することが科学的根拠に基づかないものである。

以上のとおり被告人の本件行為によつて、本件航空機の墜落、破壊及び乗務員・乗客の死傷等の結果実現は絶対に不可能であつた。

4  心神耗弱について

被告人は、生来極めて実直で責任感が強い反面、小心、神経質、内向的、非社交的であつたため、本件横領等の犯行を告白し、その善後策について相談することもできず、多額の損害の補填の方法について独り思い悩んだ結果、東京都庁の事務監査の前後ころには長期間にわたる不眠、食欲減退、煩悶等によつて、時折、目まい、耳鳴り、頭痛、まぶたのけいれん、発汗等の症状が現われるなど精神的にも肉体的にも極限を越える状態にあつたもので、本件第二の犯行時における被告人の精神状態は思考力が極度に減退し、焦燥感と絶望感から精神錯乱状態に近かつたもので、心神耗弱の状態にあつた

というものである。

二  当裁判所の判断

1  業務上横領について

(一) (証拠略)によれば、第一勧業銀行本郷支店の「エーザイ健康保険組合森下勉」名義の普通預金口座(以下健保森下口座という)は、被告人においてその入金事務を担当する同組合経営の保養所佐島寮の利用料金を現金で持ち運ぶのが危険であり、しかも右料金中には業者に支払を要するものも含まれているため、組合への入金手続前にその支払いを済ませ、残額を一箇月ごとにまとめて入金処理するのが便宜であることから、右料金を受け入れ、プールしておくための口座として、昭和四九年ころ、被告人において開設し、以後そのために利用して来たものであつて、右口座には「エーザイ健康保険組合」の肩書きがあり、他方同支店には右口座とは別個に、被告人個人名義の普通預金口座もあつたこと及び当時既に被告人は、上司から組合事務の処理一切を任されていたものであることが認められ、これらの点を併せ考えると弁護人主張のとおり、被告人が同口座を開設するに当つて上司には相談せず(但し(証拠略)では、その後同組合理事或いは当時の事務長には同口座の存在については、話した記憶があるという)、又その届出印は被告人個人の印であつた事実が認められるにしても、右口座は被告人が同組合の金員保管の一方法として設けてあつたもので、同口座の預金は被告人が組合のために業務上保管していたものというのが相当である。

もつとも前記証拠によれば被告人は、昭和五一年五月ころから商品取引に手を出すようになり、その後は右口座に佐島寮の利用料金の外、右商品取引に必要な委託証拠金の支払にあてるため、社会保険支払基金事務所に対する支払金額を水増して捻出した差額分、組合財産を不当に処分した金員の一部及び前記サンライズからの送金等も入金していた事実が認められるのであるが、しかし、右社会保険支払基金事務所に対する支払水増し分も同口座に入金後直ちにその全額を右委託証拠金支払等の自己の用途にあてるというものではなく、将来その必要が生じた都度、これに必要な額を同口座から払出そうというものであり、しかも同口座から再び同組合の本来の口座である同支店のエーザイ健康保険組合理事長内藤達雄名義の普通預金口座へ一〇数回にわたつて振替入金がなされた事実もあることに鑑みると、判示認定のとおり、被告人においてサンライズに対する商品取引の委託証拠金にあてるため、健保森下口座から銀行支店長名義の自己宛小切手を振り出させ、その交付を受けた時点において確定的に領得の犯意を実現したものと認めるのが相当であり、それに至るまでの間同口座の預金は依然として被告人が同組合のため業務上保管していたものと認めて差支えなく、又同口座に前記組合財産を処分した金員の一部等が入金された事実があつたにしても、これは右認定と矛盾するものではない。

よつてこの点についての弁護人の主張は採用しない。

(二) (証拠略)によれば、被告人は、判示のとおりエーザイ株式会社の労務部厚生担当職員として、同会社の締結した団体定期保険契約に関して、保険金の請求業務を行なつていたものであるところ、右保険金を請求するに当つては、その入金方法として銀行振込によるかどうかを指定することになつており、通常は銀行振込の方法がとられたが本件以前に小切手で支払われたこともないではなく、本件各請求に際しては、いずれも被告人において銀行振込等の欄を抹消したことにより、また判示第一の五の二〇〇万円の際は、保険金支払いが分割払いになつたこともあつて小切手で支払われたものであり、いずれの場合も保険会社との折衝窓口である被告人のもとへ持参され、これを受領した被告人は右金額を確認したうえ決裁手続を経て領収証を作成したことが認められ、右請求業務を担当する被告人としては、その支払が銀行振込みであれ小切手によるものであれ、その支払金額の確認、受入伝票の作成等右支払いに伴う事後の事務処理は当然職務上予定されていたものであつて、右小切手の保管も当然これに含まれると解すべく、これがその職務と無関係であるとする弁護人の主張は採用することができない。

2  航空危険法四条後段違反の成否

航空危険法四条は、爆発物、銃砲、刀剣類等を業務中の航空機内へ持込む行為に対し、その法定刑を、これらの通常の不法所持罪より加重しているものであるが、これは航空機の場合陸上或いは水上の交通機関とは異つて、通常の運航機能の阻害が即墜落・破壊をもたらす可能性が大きく、しかも一旦墜落ということになれば、多数の乗員・乗客らの死につながるおそれが強く、むしろ生存の可能性が少いとすらいえることから、このような危険を生じさせるおそれのある物件の航空機内への持ち込みについて罰則を強化し、その未然防止を図ろうとするものと解すべきであり、その趣旨からすれば同法四条後段の「その他航空の危険を生じさせるおそれのある物件」とは、その物の性質、形状等からして、例示物件である銃砲、刀剣類、火炎びんと同程度に航空の安全に対する危険性があるものをいい、必ずしも弁護人主張のように、その物自体で即座に人を殺傷し、又は物を損壊乃至は破壊し得る性能を有している物に限られないと解すべきところ、(証拠略)によれば、被告人が本件機内に持ち込んだベンジンは、ノルマルヘキサンを主成分とするもので、その引火点は摂氏マイナス二一・九七度、発火点摂氏二六〇度で、引火点易燃性においては通常のガソリンとほぼ同程度(ちなみにガソリンは、引火点摂氏マイナス三〇度ないしマイナス二〇度着火温度摂氏三〇〇度)であり、又その量も、五〇〇ミリリツトル入りのびん二本及び三四〇ミリリツトル入りのびん一本合計一三四〇ミリリツトルに及び、ビール大びん二本分以上に相当するものであつて、通常火炎びんは、ビールびん程度或いはそれ以下の容積であることからすると、その内容物、量において右火炎びんに匹敵するものである。もつとも本件ベンジンには発火装置がなかつた点では火炎びんとは相違するが、通常誰でもが所持するマツチ或いはライターにより容易に点火し得るものであることからすれば、この点はさほど重視すべきではなく、結局その危険性においては、例示物件のひとつである火炎びんと比肩しうる程度の航空の安全に対する危険性があるものというべきである。従つて、被告人が本件機内に持ち込んだベンジン一三四〇ミリリツトルは、同法四条後段の「その他の物件」に該当すると認められる。

しかしながら、本件において被告人は、判示のとおり右ベンジンを航空機内に持ち込んだうえ、更にこれを用いて航空機の墜落、破壊の実行行為に及んだものであつて、右ベンジンの持込みの点は右墜落等の実行行為の予備行為に当るものであるから、結局本件機の墜落・破壊の未遂罪に吸収されるものと解するのが相当である。

なお、本件において検察官は、先に右ベンジンの航空機内への持ち込みの点について公訴を提起し、その後右ベンジンを用いての航空機の墜落未遂等の点を追起訴したものであるが、後者によつて、前者の訴因変更がなされたものと解することができるので、これについて公訴棄却の言渡はしない。

3  航空機墜落等未遂及び殺人未遂の成否

(一) (証拠略)によれば以下の事実が認められる。

(1) 本件機の構造及び機内殊にラバトリーの状況

本件機は、全長三八・三メートル、胴体の幅三・四メートル、胴体の高さ三・六メートルで、その内部はドアを隔ててコツクピツト(操縦室)と客室に分れ客室の全長は二一・三メートル、最長幅部は三・一メートルで、左右の壁は天井に向つて次第に狭くなつてその断面はほぼ半円のドーム形をなしており、その最長高は二メートルである。又客室にはコツクピツトから後部ラバトリーまで幅員四六センチメートルの通路が通つており、これにはジユータンが敷かれている。通路の両側には機首に向つて右側に三席二六列、左側二席二五列の合計一二八座席が設けられている。次にラバトリーは、客室後部に通路に面して左右に一箇所ずつあり、高さ一・九三五メートル、幅〇・四八メートルの前部(機首側)引き開け式ドアで出入するようになつている。そしてその内部は、床、便器(便座)、洗面台等が設けられており、その平面図及び側面図は別紙図面(一)及び(二)のとおりである。

(2) 被告人の行動

被告人は判示のとおり、昭和五三年一〇月一日午前一一時三五分ころ、本件機が大分標識所上空を通過し、海上に出たところを見はからい本件機最後部の座席からシヨルダーバツグを持つてラバトリー内に入り、施錠をしたうえ、バツグから取り出したブタンガスボンベ三本のキヤツプをはずして便座後方の壁際に立て、右ボンベ等を包んでいた新聞紙を床に拡げた後、同じくバツグからベンジン五〇〇ミリリツトル入りのびん二本を取り出してそのうち約一本半を散布したころ、外でドアを叩く音がしたため、急いで右新聞紙に所携のマツチで点火したところ、ベンジンが一気に燃え上がつたため思わず便座にしりもちをついたが、その熱及び死の恐怖に耐えきれず、右点火の約一〇秒ないし二〇秒後にラバトリーのドアを足で蹴り開けて同所から通路に飛び出し、客室前方に逃げた。

(3) スチユワーデスによる消火活動及び乗客の状況

そのころ客室最前部ギヤレー(料理室)付近で勤務中であつたスチユワーデス小田倉裕美は、乗客の「火事だ」という声で振り向いたところ、後部右側ラバトリーから炎が通路天井まで噴き出し左右ラバトリー間の通路一体が火でおおわれているように見えたため同僚に機長への報告を依頼するや直ちに客室後部にかけつけラバトリーとの隔壁に取り付けてあつた炭酸ガス消火器によつて消火にあたつた。同人が右消火器を使い終わつた時点で火勢はかなり衰えてはいたが完全には消火できなかつたため、更に前方操縦室備えつけの同消火器を持つてラバトリーに引き返し、これによつて完全に消火した。(なお炭酸ガス消火器はこの二本のみで、その他には水の消火器一本が客室後部に備付けられていた。)この間客室後部には一面に黒煙が充満したため、後部乗客は中央一六、七番シート付近より前に移動して、通路にも一〇名位が立つており、「窓をあけて下さい」「子供がいるので酸素マスクを出して下さい」などと口々に叫ぶなど騒然となつたが火は消えた旨の機長のアナウンスにより間もなく平静に戻つた。その後本件機は、午前一一時四六分ころ大分空港に緊急着陸した。

(4) 本件機の損壊状況等

前記被告人が便座後方に立てかけたガスボンベ三本はいずれも破裂するに至らなかつた(但し内一本は内部圧力が増大し、そのためトツプドーム部分が膨張して変型していた)が、ベンジンの火勢により右側ラバトリー内壁面は真黒となつて焼け落ち、機体外面との間に充填されたグラスフアイバーも一部溶解して露出し、ドアの内側、天井、床ともひび割れたり気泡状に盛り上がつたりした。又便器台の床は真黒に焼けて変形し、便器のふたも一部溶解変形した。客室は、後部天井わくが黒くすすけてしわがよるなどしたが、その他の部分には特に損傷はなかつた。

(二) 被告人の行為による本件機の墜落及び人の死亡の可能性について

前記認定のとおり本件においては、スチユワーデスによる有効適切な消火活動により、本件機は右程度の損壊にとどまり、墜落には至らなかつたものである。

ところで、(証拠略)によれば、スチユワーデスは年二回程度緊急事態に備えての訓練を受けており、又本件当時機内には炭酸ガス消火器二本及び水消火器一本が備えつけられていたことが認められるが、しかしスチユワーデスが右程度の訓練を受けていることによつて、弁護人主張のように異常な緊急事態に際しても、常に冷静沈着で有効適切な消火活動を期待し得るものとは認められず、又経験則上、発見遅れ或いは対応処置の遅れ等による事態の悪化も十分に予想されるところであり、そのような場合にでも、常に右程度の消火器で十分であると認めることはできず、従つて本件火災は消火し得ない可能性も十分にあつたというべきである。

そこで以下右火災が消火し得なかつた場合のラバトリー及び客室内の燃焼の状況及び程度並びにこれによる本件機の墜落及び人の死亡の可能性の有無について検討する。

(1) 模型機体等による模擬実験結果(客室内の燃焼状況及び有毒ガスの発生)

(証拠略)によれば、被告人の本件犯行によつて、機体及び乗客にどの程度の危険性があるかを調べるため、警察庁科学警察研究所所属技官五名が主体となつて本件機に類似した模型機体内で、被告人の本件犯行とほぼ同じ状況の下に模擬実験が行われ、ガスボンベの破裂燃焼状況、機体内の火炎の延焼伝播状況及び燃焼時の有毒ガス発生状況等が観測記録されたが、その状況及び結果は次のとおりであつたことが認められる。

(イ) 予備実験

被告人が供述するような方法及び状況下で、ベンジンに点火した場合、ラバトリー内に置いたガスボンベの破裂燃焼を惹き起こすかどうかについて調べるためさきに大分県警察本部において製作したラバトリー部分の模型(床面、便器台、化粧台等の各寸法及び床面から天井までの高さ並びにドアの寸法形状等は本件機のものとほぼ同じくし、外壁及び屋根は胴縁組の上にカラートタン貼り、内壁、天井及び床面等はコンバネ或いはベニヤフラツシユにカラートタン貼りのもの)の模擬便器台上にガスボンベを一本或いは三本置き、床面にベンジン約一〇〇〇ミリリツトルを散布してこれに点火するといつた方法(なお実験に使用されたガスボンベ及びベンジンはいずれも本件において被告人が実際に使用したものと同一のメーカーのもの)で昭和五三年一一月一日に二回予備実験が実施されたところ、いずれもベンジンに着火後間もなくガスボンベが破裂燃焼して、火球状の火炎の拡大が見られ、またガスボンベのトツプドーム部分は離脱飛散した。(なおさきに認定のとおり、本件において現実に被告人が便座後方に立てていたガスボンベのうち一本はそのトツプドームが膨張していたのであるが、右実験の結果に照らすと、右ボンベは破裂直前であつたことが窺われる)

(ロ) 模型機体実験

前記科学警察研究所所属技官らの指示に基づき、客室部分の長さ、高さ及び幅並びにラバトリーの床面、便器台、化粧台の各寸法、床面から天井までの高さ、ドアの寸法形状等を本件機とほぼ同様として、全体の骨格を軽量鉄骨で形成し、その外面を金属板(トタン板)、内面をプラスチツク材料(商品名「カイダツク」)でそれぞれ覆つてその間にグラスウールを入れ、ラバトリー及びその付近の客室該当部分には内装材及びカーペツトを張りつけ、客室後部付近には本件機の客室内座席と高さ、長さをほぼ同じくした模擬座席を設置し、同座席にはT字型の木組に衣類をつけた模擬人体を配置した胴体部分のみの模型機が製作され、ラバトリー該当部分の模擬便器台に前同様のガスボンベ三本、床面に新聞紙一枚等を置き、これに前同様のベンジン約一〇〇〇ミリリツトルを散布したうえ、自動遠隔点火装置でこれに点火し、着火の一〇秒後にラバトリーのドアを開けるなど、本件とはほぼ同様の条件での実験が行なわれたところ、ドアが開けられるやベンジン等の燃焼火炎が客室通路側へ吹き出し、更にベンジンに着火後四二秒、四六秒、四八秒の後にはガスボンベ三本が順次破裂燃焼し、火勢の強い火炎がラバトリー内から客室側へ天井に沿つて噴出し、後部天井付近一帯が火煙と黒煙で包まれ、その後部客室内の天井や壁、座席シートカバー、模擬人体の着衣等に着火し、火炎は客室後部壁体部から機首側へ四ないし五メートルの所まで拡大したが、同機体内はほとんど密閉状態であつたため、不完全燃焼を生じ、着火後五三秒後から火勢は急速に衰退して客室内には多量の煙と煤が充満し、七〇秒後には僅かな火炎がみられる程度であつた。

これらの実験の結果によれば、本件火炎がベンジンに着火後約五〇秒程度で消火されなかつた場合、ベンジンの燃焼熱は、便座後方に立てたガスボンベの破裂燃焼を惹き起し、その燃焼状況及びこれの客室内への延焼伝播状況は右実験程度のものとなる可能性があつたものと考えられる。

なお、弁護人は、右実験においては、模型機等の形状、容積、気密性、材質、ガスボンベの設置位置及び被告人がラバトリー内でガスボンベと火炎の間にいたこと等の条件が本件時と異なつているので右実験結果は採用し得ない旨主張するのであるが、右実験は厳密には実際時と多少の差異があることは否定できないにしても、これらの差異はいずれも右結論にさほど重大或いは決定的な影響を与えるものとは認められないので、右実験結果は採用して差し支えないものである。

ところで右実験においては右燃焼の程度及び状況の調査と同時に右燃焼に伴う一酸化炭素及び塩化水素等の有毒ガスの発生状況及びその濃度についてラバトリー内、客室内のラバトリーから三メートル、同八メートル、同一三メートル、同一八メートルの五地点(但し塩化水素についてはラバトリーから三メートルの地点のみ)で採取測定がなされたのであるが、これによれば、一酸化炭素は、ベンジンに着火後一分三〇秒から二分三〇秒までの間に採取されたものでは最低〇・二パーセントから最高二・五パーセント、同じく二分三〇秒から三分三〇秒までのものでは、最低二・〇パーセントから最高三・七パーセント、同じく三分三〇秒から四分三〇秒までのものでは、最低二・三パーセントから最高二・八パーセント(以後省略)であり、右濃度はラバトリーからの距離とは関係のないことが認められ、又塩化水素はベンジンに着火後一分三〇秒以後一〇分までに採取されたものはいずれも〇・一パーセント以上であつた外、シアン化水素も発生していたことが認められる。

もつとも、本件機と模型機との容積及び使用されている内装材には多少の相違があるので、これらの点を補正して考察する必要があるのであるが、(証拠略)によれば、右の点を考慮して推定補正を行つた結果、一酸化炭素濃度は、着火後二分三〇秒以後で一・二パーセント乃至三・三パーセント程度、塩化水素は着火後一分三〇秒以後で〇・〇六パーセント以上となることが認められる。

なお弁護人は、右実験では模型機の内装材にPVC系樹脂である商品名「カイダツク」を使用しているが、本件機の内装材はこれと異なつており、又本件機と模型機では、換気率、燃焼の状況、ガスの拡散の条件も異つているのであるから右実験の結果得られた有毒ガスの発生及び濃度は本件の証拠として価値がない旨主張するのであるが、なるほど前記鑑定書(一)(二)によれば、模型機に用いられた内装材カイダツクは、PVC系の樹脂であり、一方本件機の内装材にはPVC系とABS系の双方の樹脂が使用されていてその材質の点で相違があることはその主張のとおりであるにしても、右各鑑定書によれば本件機のラバトリー内の内装材の一部と、右カイダツクの燃焼の比較実験をしたところ、一酸化炭素の発生量はカイダツクが一グラム当り八〇ミリリツトルであるのに対し、本件機の内装材のそれは、一グラム当り六九ミリリツトル乃至二四九ミリリツトルであつて、平均すれば、むしろカイダツクよりも本件機の内装材の方が一酸化炭素の発生量が多く、一酸化炭素の発生及びその濃度については、右材質の違いが被告人に不利に働らくとは認められない。又本件機と模型機とでは、厳密にはその条件に相違があることは否定できないところであり、そのために、前記のとおり実験結果の推定補正が必要であつたのであるが、弁護人の主張する右条件の相違は、右補正によつてもなおおぎなうことができない程重大なものとは認められず、前記実験結果に決定的な影響を及ぼすものとは認められないので、前記実験結果は採用して差支えないものと思料する。

しかして、(証拠略)によれば、空気中の一酸化炭素濃度が〇・五パーセント乃至一パーセントのところに、人が一分乃至二分間暴露されると脈拍、呼吸微弱となり死に至るというものであり、又塩化水素は〇・〇〇一パーセントで鼻腔への刺激が強く、通常では三〇分以上耐え難く、〇・〇〇三五パーセントでせき、胸部圧迫感で一〇分以上耐えるのが限度であり、〇・〇〇五パーセントで数分間以上耐えられず、〇・一パーセントで生命の危険があるとされており、更にシアン化水素はその濃度が比較的低い場合には、めまい、吐き気、動悸などの症状が見られ、以後血中のシアンの濃度が上昇するに従つて意識喪失をきたし、やがてけいれんを起こして死に至るというのであるから、右実験の結果に照らすと本件において燃焼が続いておれば、客室内の乗客は前記有毒ガスにより死に至る可能性が十分にあつたと言う外はない。

又(証拠略)によれば、本件機の客室とコツクピツトとの間はドアにより隔てられているが、右ドアは気密構造ではなく、しかも下部には通風用のルーバーが設けられ、これは開閉できるようになつているが、これが開放されていれば勿論、これが閉じられていても、客室後方から機首に向けての空気の流れにより煙や煤及び前記有毒ガスはコツクピツト内に流入するので右有毒ガスにより操縦を担当する乗員の死亡更には墜落の可能性もあつたと言わねばならない。

又右(証拠略)によればコツクピツト内に煙が充満すれば、計器盤の確認が困難となり、前方視界も悪く、この状態で着陸するとすれば、滑走路に対する機の正対姿勢や、高度などの適確な把握が困難となつて、着陸に失敗する危険性があるなど安全な運航に支障が生ずることになり、この点でも墜落、破壊の可能性があつたと認められる。

なお有毒ガスに対しては、酸素マスクにより一応保護されるが、前記実験の結果からも明らかなように有毒ガスは極めて短時間の暴露によつても人体に及ぼす影響が大きいことを考えると、右マスクを装着するまでの時間の経過が問題であり、右マスクがあることによつて、前記危険性が全くなくなるというものではない。

以上を要するに、本件機のラバトリーにおいて、被告人がベンジンに点火後、時を移さずに(実験では約五〇秒位で)消火し得なかつた場合には、その熱によつてガスボンベの破裂燃焼を惹き起こし、その燃焼は着火後約七〇秒間継続した後自然に鎮火するが、その間の不完全燃焼によつて客室内には黒煙と煤が充満し、又一酸化炭素、塩化水素等の有毒ガスも発生して、その濃度は客室内の乗客更にはコツクピツト内の乗員を死に致すに足るものであり、更にこれによつて本件機の墜落、破壊の可能性もあつたことが認められる。

(2) 重心位置の許容範囲の逸脱

(証拠略)によれば、航空機が正常な飛行姿勢を保ち、安全に運航するためには、常に機体の重心位置が許容範囲内にあることが必要であつて、このために機長は離陸前に搭載燃料、貨物、乗客等による重心位置が許容範囲内にあるかどうかの確認を義務づけられており、これが許容範囲外にある場合は離陸することはあり得ず、従つて通常は重心位置が許容範囲外での航行は考えられないのであつて、本件機の場合、重量九万三〇〇〇ポンドの条件下では重心位置が三・二パーセントMAC(平均空力翼弦長=主翼の空力的に一番影響のある箇所を断面にし、その断面上の長さを百分比で表わして重心位置を表示するもの)から三六パーセントMAC、重量一〇万ポンドの条件下では、三・六パーセントMACから三六パーセントMACの範囲内になければならないことが認められる。

しかし、さきに検討したように、機内後方に火災が発生し、その火炎や煙が前方に及んで来た場合、乗客はその火源から遠ざかろうとして座席を離れ客室最前部に移動するであろうことは経験則上明らかであり、しかも航行中の航空機においては、脱出できないことの不安感から集団パニツク状態に陥り、統制された集団行動は全く期待できないことも容易に推察し得るところであつて、このような場合重心位置はその許容範囲を超えることが考えられる。

即ち、(証拠略)によれば、本件機のスチユワーデス四名及び乗客(三歳以下幼児一二名を除く)九五名合計九九名が、ギヤレー前通路及び客室前部に身動きできない程度に詰めるとすると、前方から五列目の座席までに全員が集まることができたのであるが、右ダグラス社回答翻訳文によれば、右のような事態に至つた場合の重心位置は、マイナス一四・七パーセントMACに偏位し、又右乗客らが仮りに前から八列目の座席までに集まつたとしても重心位置はマイナス九・五パーセントMACに偏位することが認められる。ところで(証拠略)によれば、右のように安全航行のために通常予定されている重心位置の範囲を逸脱し、重心位置が前方に偏位する場合には、機首下げの強いモメントが働き、これに対してスタビライザー、昇降舵等を最大限に操作しても機首の立直しができないなど操縦装置で制御できないような場合には、直ちに墜落或いは地表に激突等の可能性が生じ、殊に着陸時においてその危険性が大きいことが認められる。

もつとも前記ダグラス社回答翻訳文は、右のように重心位置がマイナス一四・七パーセントMAC(重量九万八三九四ポンド)の状態における着陸の場合であつても、正常進入速度より二〇ノツト増しの約一四六ノツトで昇降舵を一杯にして着陸操作を行なえば着陸距離(但し乾燥時)は約三〇パーセント増加するものの安全に着陸できるというのであるが、右着陸方法はダグラス社への照会の結果初めて判明したもので、通常パイロツトに対して、このような事態に備えての訓練はなされておらず、機内で火災が発生し、重心位置が安全範囲を逸脱しているというような異常かつパイロツトにとつても未経験な事態のもとにおいてそのような適切な着陸方法がとれるかどうか疑問であるのみならず、仮にそのような措置をとつたとしても着陸距離は右のとおり増加するのであるから滑走路を越えて暴走し、或いは前方の障害物に激突し、転覆する等の可能性を否定することができない。

以上のとおり被告人の判示第二の犯行による乗客、乗務員の死亡及び本件機の墜落、破壊の各可能性はこれを認めるに十分である。

なお、判示第二の犯行当時被告人としては、ガスボンベの破裂による本件機の破壊及び墜落の意図で右犯行に及んだもので、右のように燃焼による有毒ガスの発生或いは航空機の重心位置の許容範囲逸脱等による乗客、乗務員の死亡及び同機の墜落、破壊等の結果の発生については、これを明確に予見していなかつたことは弁護人主張のとおりであるにしても、右のとおり結果の発生が実験則上予測されるものである以上、被告人が右結果発生に至る因果過程について具体的に予見したか否かは、犯意の成否に影響を及ぼすものではなく、この点についての弁護人の主張は採用できない。

4  心神耗弱の主張について

(証拠略)によれば、被告人は昭和五三年五月ころ、エーザイ健康保険組合に対する東京都の定例監査が同年九月に行われることを知り、同監査においては自己の使い込み等の発覚は必至であると考え、それまでにできる限りの穴埋めをしようとして、同年七月末ころサンライズ貿易に委託してあつた商品取引をすべて清算し、返還を受けた委託証拠金三、二〇〇万円余を右弁償に充てたが、使い込み金はなお九、〇〇〇万円にも及び、その額からして到底弁償の見込みもなかつたことから、右犯行がおおやけになつた際の世間の非難と、これが会社の上司や家族に及ぼす精神的打撃等について独り思い悩んだものの、結局なすすべもなく、同年九月二二日に右監査が実施されるに至つた。そして被告人の予期したとおりその不正が発覚し、そのため右監査は更に引続き行われることになつたため、被告人は上司及び被告人の長兄にその事情を打ち明け、これに対する善後策について相談したが、結局右弁償は同人らに頼る外はなく、右上司はその私財を投げ打つて弁償に当たる覚悟であり、又公務員である兄も辞職してその退職金を右弁償に当て、更に兄の子らも大学を中退し、或いは進学を取り止め就職するなどして右弁償に協力するとの意向を聞かされた。しかし上司及び兄にそのような迷惑をかけるには到底忍びず、このうえは死をもつて謝罪し、自己の生命保険金で弁償する外はないと決意し、急遽三井生命の生命保険(災害による死亡保険金六、〇〇〇万円)、郵政省簡易保険(右同保険金二、二〇〇万円)に加入したうえ、最後の想い出に妻子と共に阿蘇山へ旅行することにし、妻子らにはこれらの事情を秘したまま同月二九日夕方羽田空港付近のホテルで一泊し、翌三〇日空路で熊本に行きその足で阿蘇山へ登つたが、そのころには妻子を道連れに自殺することを考えるに至つたものの、妻子にはこれを打ち明けず、むしろ自己の心境を悟られぬように気を配つた。しかし阿蘇火口ではその機会がなかつたため、同夜は内の牧温泉で宿泊し、その旅館において妻子を絞殺して同旅館に放火しようと考え、夕食後近くの薬局でベンジン二本を購入したが、妻子の寝顔を見るにつけ、又初めての飛行機による旅行で有頂天になつていた子供らを思うと気もくじけて実行できず、あれこれ思い悩んで夜を明かした。そして一〇月一日午前四時ころに至り、後に自殺であることが判明すれば保険金は支払われないことになるので、航空機内でベンジンに放火してガスボンベを破裂させ、これによつて同機を破壊、墜落させ、事故死を装つて自殺することを思いつき、同日朝右旅館を出発する直前、近くの金物店で右に使用するガスボンベ三本一組を買い求めて熊本空港に向い、同空港において更に国内航空傷害保険(死亡保険金一、〇〇〇万円)に加入したうえ、右ガスボンベ三本、ベンジン二本の外、自宅から持参した使い残りのベンジン一本(約三四〇立方センチメートル)をシヨルダーバツグ内に隠し持つて本件機に搭乗し、判示のとおり同機が別府湾上空に至つた際、海上であれば墜落の原因も不明となり、また惨状も人の目に触れることもないと考え、右犯行に及んだことがそれぞれ認められる。

右被告人の本件使い込みの発覚に至るまで及びその発覚後判示第二の犯行に至るまでの各経緯に照らすと、この間の被告人の苦悩は可なりのものであつたことが窺われ、長期間にわたる不眠、食欲減退、煩悶により、時折目まい、耳鳴り、頭痛等の精神錯乱症状を呈することもあり、精神的、肉体的に極限を超える状態にあつた旨の被告人の供述は、あながち誇張とは言えないところがあり、又判示第二の犯行は、精神的に追いつめられ、思い余つてのものであることは認めて差し支えないのであるが、しかし、被告人の使い込みの発覚から右犯行を決意するに至るまでの経緯は同犯行の動機として十分理解し得るものであり、又被害弁償に当てるため、その額相応の保険へ加入し、自殺では保険金が支払われないことから事故死を擬装するなど、自己の行為の意味を十分に理解し、目的ある行動をとつていること及び被告人は判示第二の犯行直後から、同犯行の模様について詳細且つ明確に供述していることから見れば、この間の意識は清明で右犯行状況につき十分に記憶していると認められること等を併せ考えると、被告人は判示第二の犯行当時、是非善悪の弁別能力及びこれに従つて行動する能力のいずれも、著しく減退した状況にはなかつたものと認められ、弁護人のこの点についての主張も採用することができない。

(法令の適用)

被告人の判示第一の一、第一の二、第一の四、第一の五(包括して)及び第一の六の各所為はいずれも刑法二五三条に、第一の三の各所為はいずれも同法二四七条、罰金等臨時措置法三条一項一号に、第二の所為中、航空機の墜落破壊を図つたが未遂に終つた点は航空の危険を生じさせる行為等の処罰に関する法律五条、二条一項に、殺人未遂の点は各被害者毎に刑法二〇三条、一九九条にそれぞれ該当するが、判示第二の所為は一個の行為で一一三個の罪名に触れる場合であるから同法五四条一項前段、一〇条により一罪として刑及び犯情の最も重い酒井清憲に対する殺人未遂罪の刑で処断することとし、判示第一の三の各罪については懲役刑、判示第二の殺人未遂罪については有期懲役刑をそれぞれ選択し、以上は同法四五条前段の併合罪なので同法四七条本文、一〇条により最も重い判示第二の殺人未遂罪の刑に同法一四条の制限内で法定の加重をした刑期の範囲内で被告人を懲役一三年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中一一〇〇日を右刑に算入し、訴訟費用については刑訴法一八一条一項但書を適用して被告人に負担させないこととする。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 近藤道夫 武部吉昭 塚本伊平)

犯罪事実一覧表(一)、(二)、乗務員・乗客一覧表(省略)

別紙図面(一) ラバトリー側面図<省略>

別紙図面(二) ラバトリー平面図<省略>

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